クラクフ〜プラハ旅行記:3日目 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所①

 どのように書こうか迷って、結局10ヶ月も経過してしまいました。お待ちくださりどうもありがとうございます。一部記憶が薄れているところもありますが、ご参考になれば幸いです。

 

●3日目:アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

 

 今回の一番の目的です。何がきっかけだったか忘れましたが、小学生の頃に児童向けの抜粋されたアンネの日記を読んだのがホロコーストホロコーストは古代ユダヤ教の宗教用語であり、ユダヤ民はこのジェノサイドをそのように当てはめるべきではないとして、ヘブライ語の「ショア shoah」を用いる動きもあるようです。)を知るきっかけだったと思います。そのあと何年かして、またふと思い出して今度は全文を図書館で借りて読み、その後は継続して映画や本に触れながら「一度は必ず訪れたい」と思いつつ、「とはいえあまりに遠くて行けないだろう」と諦観の念もいだいていました。

 ところが最近になって、アウシュヴィッツに日本人ガイドの中谷剛さんという方がいることを知り、彼の本や記事を読んで、気づけば航空券を取っておりました。上司に言う前に。(あとから、「ほんとに休むの……?」と聞かれた。ちゃんと事前に伝えておきましょう。。。)

 

 先述のとおり、ガイドは日本人の中谷剛さんにお願いしました。9月4日に中谷さんのアドレス(nakatani⭐︎wp.pl)へ、10月半ばの何日に見学したい旨をお伝えしたところ、催行可否がわかるのは月末とのことでした。私の場合は催行可の連絡がいただけましたが、万が一の場合に備えて英語ガイドかガイドなしも検討しておかと良いかもしれません。ですが、予定をずらしてでも中谷さんガイドをつけることをおすすめします。展示は文字での説明が少なく、意図が汲み取れない可能性があります。

 朝10時集合なので、前日のうちに買っておいたクイニーアマンが朝食です。

 ここはとっっってもおいしかった!!!!!! フェタチーズとほうれん草、キャラメルの2つ。あとカード決済できます。

 

 そして。。。

 一応ね、昨日のうちにバス停の下見もしたし、大丈夫だと思ったんですけど。

 

 結構歩くのよね。

 ほ〜んとバカバカ。8時5分に出発なのよ? 今何時って……7時40分なのね。

 

 乗り遅れたら一貫の終わりなのに、乗り方がいまいち不明な路線バスなんて恐ろしくて使えません。信じられるのは己の脚だけ。地面に脚がついてればどこへだって行けるんですから。

 とんでもなくギリギリな時間にホテルをチェックアウトした私はスーツケースをフロントで預かってもらい(3時くらいに取りにきます!!!と泣きそうになりながら頼んだ。泣いてたかもしれない)、ここからは全力ダッシュです。

 あまりの爆走に知らないおじさんから何事か声をかけられましたが、ポーランド語はわからないのでガンスルーで走る。

 

 走って

 走って

 

 ………

 

 間に合った〜〜!!!

 8時2分。

 

 コロナがまだまだ……という感じなのか、乗客は少なかったです。ここで日本人らしき方を発見し、話しかけてみると同じツアーに参加するらしく、となりに座って到着まで歓談。満員時はスリなどもあるようなので、お気をつけください。二人がけシートが二列です。

 

 到着。ほぼ定刻、あるいは少し早いくらいだったと思います。この建物は受付と荷物検査用で、収容所ではありません。

 しばらくして中谷さん、他の参加者が集まり中へ。荷物検査は空港並みです。

 

 有名な門。この門から出るのを誰もが願って、そして叶わなかったのに、私は好きなように入って、出られる。通る時はなんとも言えない気分でした。

 

 レンガ造の建物は元々ポーランドの兵舎だったものです。写っている木々は戦中または戦後まもない頃(すみませんがあいまいです)植えられたもので、月日の長さを感じます。

 収容所だと知らなければ「綺麗だ」と言っていたかもしれません。

 この日は暖かく天気も良かったのでなおさらで、この風景が地獄であったとはなかなか想像し難いことでした。

 

 収容所の地図。

 ビルケナウの大きさがわかります。東部のモノヴィッツは1945年にソ連軍の手で破壊され、現在は残っていません。

 中に入ります。

 アウシュヴィッツへはナチスドイツ占領下のヨーロッパ各地から移送されました。

 選別を待つ女性・子どもの列。前方の少年は撮影するSSを睨め付けており、強い憎悪が写真からも伝わってくる。

 ガス室で使用されたチクロンBの缶の山。犠牲者の数を物語っています。

 

 ここで一度外へ。囚人のベッドが窓から見えるのですが、写真だとあまりわかりませんね。

 取り上げられたメガネ。夥しい数です。

 義足、義手、松葉杖など。第一次世界大戦で手足を失った人々が多くいました。こうして収容された中には当然ドイツ人としてドイツのために戦い、義肢となった人々もいると考えると、その痛みはどれほどだろうと思います。

  食器類、靴。帰れないとわかっていながらも、一縷の望みをかけて持ってきたものたち。もう履けないだろうハイヒールを、それでもと持ってきた女性の姿を想像します。

 刈り上げられた女性の髪や、髪で作られたじゅうたんの展示は撮影禁止です。これは尊厳を守るためです。人の一部であることを決して忘れてはいけません。加工されたじゅうたんは、やはりその過程から市場でもあまり受け入れられなかったようです。

 住所と氏名が書かれたカバン。本当であればここにあるべきでなく、持ち主や親族、知り合いに引き取られるのを待っているんです、という説明をよく覚えています。

 再度外へ。長くなりそうなので一度切ります。