おばあちゃんに会いたい

 小さい頃おばあちゃん手作りの白菜の漬物が好きで、野菜嫌いの私がごはんにのせてよく食べていた。おばあちゃんの家の畳の間にある棚にはこけしがたくさん飾ってあって、お泊まりした夜は暗闇で目を凝らすとぼんやり見えて、とても怖かったから、がんばって目を閉じていた。体の弱かったおばあちゃんだけど、私たちが家にいる間、人工呼吸器を使ったところは見たことがない。部屋の壁には所々穴が開いていた。

 小学校への通学路の途中におばあちゃんが住む団地があって、よく登校中おばあちゃんが私や他のきょうだいたちを待っていた。一緒に学校まで歩いたりしたけど、途中から私はそれがすごく恥ずかしくなって、無視することも多くなった。おばあちゃんは昔に罹ったカリエスで背中が変形し、あまり速く歩いたりできなかったけど、それでも私を待っていた。

 アルコール依存症だったおじいちゃんが亡くなってからしだいに元気がなくなって、骨も弱くなっていたので、近くの介護施設に入ることになった(私はおじいちゃんが作った鉄球みたいな大きさのばくだんおにぎりも大好きで、帰省するとたまに母親におねだりする)。そうするとすっかり会わなくなった。数ヶ月に一回、母親に連れられて見舞いに行くたび、寝ている時間が長くなって、起きてもぼうっとしていて、話すのもすごく疲れるようだった。

 ある時、母親がなにか手続きするとかで、私とおばあちゃんが部屋に残された。その頃私は中学生で思春期にあり、きょうだいへの劣等感でおかしくなっていて、多分、生きていても楽しくないとか、そんなことを言ったんだと思う。そうするとおばあちゃんは横になったまま私の手を握って、あんたはかわいい、大丈夫大丈夫、とだけ言った。劣等感というとそれは容姿のことで、おばあちゃんの言葉は今一番誰かに言ってほしかったことだった。あんまり私のことは見えていなかっただろうからこそ。

 おばあちゃんはそれからしばらくして、母親のことしかわからなくなり、やがて亡くなってしまった。肺炎に罹ったのだが、結果的に老衰でしょうとの話だ。

 長い年月が流れたけれども、今でも急に劣等感に苛まれることがある。そんなとき、あの静かな、施設の一室の、クリーム色の壁と、ベッドに横たわるおばあちゃんと、ぼんやりした瞳と、それでもたしかに私へ言った言葉を思い出す。